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冨山和彦著「会社は頭から腐る」
著者の冨山和彦さんについては以前から知っていた。この本についても知っていた。この本を読むことはないだろうと思っていたのだが、やはり読まなければいけないと思った。



●経営や企業統治を担う人々の質が劣化しているのではないか。産業再生機構で企業再生の仕事に従事し、何より感じたのが、この思いでした。(p.i)

●このギャップこそ、"失われた15年"の実相ではないかと私は思っています。新しい環境に、日本は不適応を起こしてしまっているのです。かつてうまく機能していた日本の"システム"は、機能不全に陥り、古い体制の中で育ったリーダー層のマネジメント力やガバナンス力も、大きく低下していったのではないでしょうか。(p.i)

●実は日本企業は今なお、強い現場を保有しています。それが、こうした状況の中でさえ、国際競争にしのぎを削ることができている理由です。ところが、困ったマネジメント、困ったエリート層が、社会や会社を「ゆでガエル」のようにじわじわとダメにしている。こうしたマネジメントの脆弱さが、現場にしわ寄せを与えようとしている。私には、そう映ります。~(中略)~日本企業の根幹的な競争力は、多くの場合、マネジメントの優秀性ではなかったように思います。現場の強さにこそあったのです。しかし、社会の上部構造の脆弱化を放置していると、「現場力」という根幹の競争力を食いつぶしてしまいます。(p.v)

●大ローマ帝国の将軍であったカエサルが喝破したように、人間は物事を認識するに際しても「見たい現実を見る」生き物である。人間が真に客観的地平で物事を認識し合理的に行動することなどあり得ないのだ。(p.4)

●さらには産業再生機構での再生の修羅場で見た人間模様。これらを通じて見えてくるのは、ほとんどの人間は土壇場では、各人自身の動機づけの構造と性格に正直にしか行動できないという現実であった。そこに善も悪もなく、言い換えればインセンティブと性格の奴隷となる「弱さ」にこそ人間性の本質のひとつがある。(p.5)

●善悪一如となっている人間性と人間社会の現実にこそ、経営が大きな過ちを犯す、あるいは組織がとんでもない腐敗を起こす根源がある。自分自身も含めてさまざまな弱さ、情けなさを抱えている。それを理解し、どう対処すれば「弱さ」を克服して、組織の腐敗を防げるのか、さらには弱さを強さに転化して、企業体として「強い」集団となし得るのかに経営の本質的な課題があるのだ。(p.6)

●しかし私の目の前で展開されている会議の多くが、そのように作用しているとは思えなかった。組織機能上の合理性、必要性のないものが、なぜこのように繰り返されるのか……。そう、やはりそれを行うインセンティブがこの管理職オヤジたちに働いているのである。新規事業である以上、誰も自分の計画に自信がない。~(中略)~インテリサラリーマンにとって最も避けたいのは、明らかな失敗をして恥をかくこと、そしてその責任が自分一人にかぶさってくることである。そこで、とにかく多くの人々の意見を集めて皆で決める手順をふむことで、リスクヘッジをかけようとする。これは各部門お互い様なので、どの会議もやたら参加者が多くなり、現場で実務的な準備をする人が少なくなってしまう。その上、難しいテーマについて結論を出さなくてはならない会議の前には、個人レベルでの根回しも延々と始める。人と人との関係性を喧々囂々の議論の中でこわさずに、スムーズに議論を進めたいという、これも日本の組織人としてはある意味、まともな動機に基づいている。いわゆる「報・連・相」を重視する風土、「気配り」「忖度(そんたく)」の文化と根っこは同じである。このような「相互安全保障」を目的とした会議や根回しの業務量は、人と人との組み合わせの数に応じて増えていく。コンビネーションのnX(n-1)の方程式に当てはめると、それは、人数の二乗に比例して増加する。~(中略)~管理部門のスタッフを一定以上増やしても調整業務が増えるばかりで、本質的な業務能力は高まらず、むしろ全体では減少を始める。意思決定の中味も妥協的、情緒的になっていく。だからスタッフ部門の「忙しくて手が足りない」「忙しいからちゃんとした分析や計画書を出せない」という話はだいたい、話半分に聞いておいて大丈夫である。そのような状況下ではスタッフ部門の人員、とりわけ管理職やそれに準ずる中高年オジサンの頭数は思い切って減らしたほうが業務遂行能力も意思決定のスピードと的確性も向上する。(p.16)

●大雑把にいうと、この手の中高年インテリスタッフ比率の高い組織では、上のほうからスタッフを半分くらいに減らしてもほとんど障害は起きない。以前、ミスミの創業者である田口弘社長(当時)から、「人が足りないという部門からはむしろ人を取り上げたほうが本質的な効率改善が進むものだ」といわれて「うーむ」と頭を抱えたことがある。田口さんはこのようなパラドックスを見抜いていたのであろう。(p.17)

●インセンティブとは、働く上で何を大切に思うのか、人それぞれの動機づけされる要因である。~(中略)~今の仕事を明日もやれることに喜びを感じる人もいるし、私のように同じ仕事を繰り返すと飽きてしまう人もいる。このインセンティブは、人によって違う。また、同じ人でも人生のステージによって変わっていくものである。ここには、能力の優劣はまったく関係がない。インセンティブと並んで人の動きを機械的に捉えられない要素が、それぞれの性格である。リスクを取るのが嫌いな性格の人は、絶対にリスクに対して中立的でなくてはならない仕事、たとえばエクイティ投資のような仕事には向かない。~(中略)~日々の変化を好む性格の人は、ルーティン的な正確性が求められる仕事は向かない。~(中略)~つまり、人それぞれの性格と仕事の特性が一致していないと、能力に関係なく、よい仕事は達成されないのだ。客観的に見ると一見、不合理に見える行動も、当人が持っている価値序列や心理状態、直面している状況の相互関係から見れば、実は理に適っているのである。その意味でインセンティブと性格は、人としての情の論理とも言い換えられる。私たちの判断や行動は、この情理に支配されている。幸か不幸か人は単純な目先の経済合理だけでは動かない。(p.26)

●窮地に陥った企業とて、個々の社員に問題があるわけではないし、個々の社員自身が根っこから腐っているわけでもない。それは、マネジメント、会社の仕組みに問題があるのである。~(中略)~そこでなすべきことは、結局、構成員各自のインセンティブ構造と性格を理解し、相互の個性をうまく噛み合わせ、そこに的確な役割と動機づけを与え、かつそのことを丁寧に根気よくコミュニケーションすることである。(p.30)

●たとえば組織のハコをいじっても、あるいは成果主義を導入しても、それらが現実に仕事をする人間の根源的な動機づけに響き、シンクロしていないならば絶対に機能しない。成果主義といっても「成果」の定義と評価次第で運用上はいくらでも違うものに変容する。だとすれば年功制のままのほうがよほど手間もコストもかからず、評価に関わる不満や社内政治を回避できてよかったということになりかねない。(p.31)

●またダメな会社は、失敗を恐れるあまり、緻密な戦略をつくろうとそこに膨大な時間と労力をかけている。とてつもないエネルギーと時間を使って延々と議論しているのだ。そして、結局何も方針が決まらないのだ。戦略論の大家マイケル・ポーターは「日本企業には戦略がない」といった。これを日本の経営者やミドルの知的水準の低さに還元するのは誤りでもある。むしろ合理的であるべき思考決定プロセスに、組織の情理的なバイアスがかかり、議論しすぎて何も実行できなかった結果でもあろう。(p.47)

●そして経営者は、飲み屋での話題が昔の自慢話になったら、もう引き時かもしれない、と私は思う。まだ自慢話の少ない人に、そろそろバトンタッチしたほうがいい。ゴールのない経営に、自慢や答えはあるはずがないのだから。やはり経営とはその難しさにこそ、本質がある。(p.51)

●オールド・ルールの中で生きてくれば、オールド・ルールに適応した人が出世していく。それをその人たちが否定することはあり得ない。ルールの否定は自己否定につながるからである。東京大学法学部文科一類をトップで卒業して大蔵省に入る、というような仕組みで生きてきた人間に、その秩序を壊すインセンティブはまったくないことは、おわかりいただけると思う。それに、壊す能力も培われていないのだ。したがって、能力とインセンティブというものが、どちらも旧来のシステムを再強化する方向に働く。いわゆる最強の"勝ち組"が、自分が勝っている場所を崩せるはずがないのである。(p.66)

●既存のシステムの中で頑張ってそこそこの線まで来た人々にとって、自分たちが既得権益を得ているシステムを守ることこそが、インセンティブだったのである。では、バブル崩壊後の経済危機に際して彼らは何をしようとしたか。「冬ごもり春待ち成功体験」にすがったのである。これも、インセンティブを考えれば、仕方のないことだった。旧来のシステムのもとで、日本は右肩上がりの成長を続けてきた。しかし、とにかく右に上がりっぱなしだったわけではもちろんない。~(中略)~景気の循環で不況に見舞われたとき、日本企業は何をしたか。コストをカットして、じっと好況という春が来るのを待ち続けたのである。そして今度も、じっと冬ごもりをして我慢をして、春を待ち続けようと考えた。~(中略)~冬ごもりは、設備や人材を腐らせるだけの問題先送りにすぎなかったのだ。だが、この冬ごもり春待ちは、多くの利害関係者のインセンティブに一致した。今までの事業モデル、経営体制を変えたくない経営陣。リスクの顕在化を避けたい金融機関……。要するに、みんな先送りをしたかったのである。先送りをすることが、自分の身を守ることになるし、自分たちの企業や銀行を当面の危機から守ることになるからだ。見たくない現実は、見ないようにしたのである。時には見えなくすることに手を染めるようにさえなっていった。~(中略)~見なくてすむものなら、見ないでおこう。それこそ、賢い人ほど、先送りを選んでしまう。そんなインセンティブが働いたのである。(p.66)

●企業の存続が当然と思うと、何より大事なことは、組織の中でまじめで優等生でいることだった。そのため、企業社会や経営において最も重要な外からの視線、お客様からどう見えるか、競争相手からどう見えるかということは、二の次となってしまった。こうして、企業の不祥事が、雨後の筍のごとく顔を出すようになる。組織を守ることが目的化してしまうと、こういうことが起こり得るのだ。気がつかない間に、じわじわと腐敗が進み、気がつくと完全に腐ってしまっている。(p.71)

●ムラ社会でまず嫌われるのは、調和を乱す人間、俗にいう「場の空気を読めない人」である。みんなが同じ暗黙の契約を持ち、優等生であろうとしているときに、この会社はおかしい、外を向こう、会社を変えよう、などとは絶対にいえないのだ。そうすると、調整能力の高い、うまくまとめられる、理路整然ときれいな作文を書けるといった、"いい子ちゃん"が出世していく。役員になる人の圧倒的多数は、こうした人たちになる。(p.72)

●日本人は挑戦しない、新しいことをやりたがらないとよくいわれるが、これは日本人に問題があるのでも、個々の社員に問題があるのでもない。挑戦すれば報われるインセンティブが、日本の企業社会にはなかったということなのである。日本的経営のインセンティブの中で生きていると、とにかく自分に傷がつかないよう、慎重に動くようになる。また、みんなが認めた人間は、なるべく傷をつけないよう、まわりも気をつける。そうやって、ある人が、予定調和的に偉くなる。本当の意味でリーダーにふさわしい経験をしていない人が出世していく。そんな歪(いびつ)な仕組みが出来上がるのである。(p.73)

●日本企業で大ブームとなった多角化は、内部労働市場の活性化には多少なりとも役には立ったが、結果的に企業に大きな爪痕を残すことになる。本業とはまったく関係のない、シナジー効果を生み出せないような事業をいくつも持ったところで、うまくいくはずがない。この赤字部門が後に大きなダメージとなって企業にのしかかることになる。(p.75)

●日本の企業の根幹的な競争力は、経営者の優秀さではなかった。いうまでもなく現場の強さにあったのである。たとえばカネボウ化粧品の価値を生んでいるのは、ブランドや経営者ではなく、最前線で化粧品を売ってくれているビューティーカウンセラーという女性たちにあった。厳しい状況になっても、彼女たちは一糸乱れぬ忠誠心、団結心で頑張った。だから、あれほどの状況になっても、カネボウ化粧品は売上げをまったく落とさなかったのである。(p.78)

●マネジメントは自分の意思と言葉を持っていなければならない。自分の頭で考えて、自分の意思で勝ち抜こうという人間でなければ、本当に厳しい状況で正しい解を創出できないし、おそらくは厳しい施策となるその解を断行しようとしても、現場がついてこない。こうした上層部の能力不足に、若手社員が根深い不信感を抱いていることに彼らは気がついていない。(p.79)

●学歴や年功序列で半自動的に管理職になるシステムでは、管理職や経営職に就くと、ピーターの法則どおり、ほとんどの人が無能になっていくのが現実である。このことに気づいたときの答えは、3つしかない。自覚して誰よりも仕事と自己研鑽に奮闘するか、一兵卒に戻るか、それとも「老兵は静かに去る」か、である。(p.80)

●終身雇用、年功序列、企業内労働組合という日本的経営の三種の神器という言葉をつくったのは、先日亡くなられた元BCGのジェームズ・アベグレン博士だった。そしてこの仕組みが、戦後に加工貿易立国として富を稼ぐという仕組みにフィットしたのだった。(p.86)

●参考までに、再生機構の業務開始半年後あたりに、幹部スタッフを中心に策定した機構の運営理念を紹介する(次頁)。温泉合宿などもやり、徹底的な議論を繰り返してつくり上げたものである。この運営理念に忠実に業務を行うことを、自立したプロフェッショナルである幹部スタッフのインセンティブの根幹の部分に直結させたところから、再生機構は本格稼働を開始したのである。幸い、時の権力の中枢にいた人々、谷垣担当大臣(後に財務大臣)も、そして不良債権処理のカウンターパートであった竹中金融担当大臣(後に総務大臣)も、私たちの信条と決心・覚悟を全力で支持してくれたし、その上の小泉総理も同様であった。(p.97)

●時には失敗し、ひどく傷つくリスクがわかっていたのに、本人のやる気に賭けて頑張らせたこともある。後に詳しく書くが、失敗することは非常に大事なことなのだ。プロフェッショナルこそ、厳しい事態に直面し、修羅場をくぐるべきなのである。それが間違いなく、血となり肉となるのである。(p.104)

●平時ならともかく、企業再生は戦時である。極限の緊張感が、内部の職員の間に軋轢を生むのは、当然のことだった。書類一枚つくるにも、やり方が違うからである。そして仕事が佳境に入るほど、専門家はプロであろうとする。こだわっているところが違い、譲らなくなる。それぞれがそれぞれに、正しくあろうとすることが、チーム内の衝突を生むのだ。~(中略)~それでも私が職員に目指してほしかったのは、トータルな種目としての事業再生家だったのだ。そのためには、それぞれの専門家が壁を破らなければならない。猛烈な勉強をしなければならない。違う分野の専門家を尊重しなければならない。異なるやり方にも、理解を示さなければならない。何より、再生企業はそれぞれの企業が文化を持っているのだ。(p.104)

●カネボウが繊維事業から撤退できなかったように、どう考えても採算の見込みのない事業や取引関係に手をつけられずにズルズル引っ張る。これは多くの名門企業に見られる現象である。創業以来の「祖業」、しかもカネボウをかつて売上げ日本一に押し上げた繊維事業を切れるのか。~(中略)~役員の少なくとも半数は、その繊維事業担当である。自分を引き上げてくれたOBたちの目もある。その中で役員会の一員として、繊維事業の撤退、ライバル会社への売却を発議し、かつ多数をとれるか。そして決議した後も、ペンタックスの騒動でもわかるように、茨の道である。まさにムラ社会の情理と市場経済の合理との葛藤から、ムラびとたちは、問題の先送りを繰り返し、最後には粉飾決算という隠蔽工作まで行ってしまった。(p.110)

●ちなみに、カネボウの粉飾とアメリカでのエンロンの粉飾決算は、まったく別の動機といえよう。ムラ社会のゲマインシャフト的な価値観を尊重しすぎたために組織を守るための粉飾だったのがカネボウであり、一方のエンロンは、CEOなど経営者の利害関係が粉飾に直結したのだ。(p.111)

●カネボウをはじめ、再生機構に持ち込まれた会社は、残念ながら窮地に追い込まれた会社だった。しかし多くの企業人は、これらの会社を絶対に笑ってはならない。多くの日本企業が、驚くほど外部規律が働きにくい仕組みをつくり上げている。多くの日本の会社は、カネボウと紙一重のところにあるのではないだろうか。実際、近年続発する企業不祥事は、それを何より物語っている。(p.135)

●市場の仕組みがうまく機能する基本は、自由と規律にある。いうまでもないが、自由であるということは、素晴らしいことだ。一部のエリートが計画的にものを考えるよりも、それぞれが自由に考え、自由におカネとヒトが結びついたほうが効率的であったからこそ、資本主義経済は社会主義経済に勝ったのである。ところが、自由は堕落する自由も持ち合わせている。不正をする自由もある。だからこそ、規律が必要なのだ。私は、日本に起きたさまざまな問題の要因のひとつとして、規律がおかしくなったからだ、という仮説を持っている。(p.138)

●後で詳述するが、資本集約的、設備集約型が産業の中心だった20世紀に比べ、知識集約化が進む21世紀は、従来型の株主主権型の統治メカニズムがうまく機能するのかという根本的な疑問も世界的に生じつつある。ところが近年、日本で議論されているのは、原理的な大衆株主資本主義だけである。上場大企業は株主主権型で、大衆株主資本主義をよしとし、そうでなければすべて非上場化せよとなる。これを理想型として議論を集約させていくことに、私は大きな違和感を感じる。こんな単純な二元論と合っていない産業、合っていない組織モデルはたくさんあるからである。(p.142)

●では、ガバナンスが果たす役割の中で、最も重要なテーマは何なのか。これは政治の仕組みでもそうであるように、トップマネジメントの選択と罷免にある。どんなふうに選び、どんなふうに裁量権を与え、どういうときにクビを切るか、という問題である。ほとんどの統治機構のよし悪しは、ここにこそ集約される。~(中略)~ガバナンスが評価すべきなのは、その意思決定ではなく、経営者そのものの適正だ。~(中略)~しかも、その意思決定が正しいかどうかは、実はやってみないとわからない。どんなに調査したり、コンサルティング会社に相談したりしたところで、わからないのだ。したがって取締役会、ガバナンス機構が本当に監督すべきことは、ひとつしかない。それは、経営者がそのときの経営者としてふさわしいかどうか、だけである。それ以外のことに、うかつに口出しをしてはいけない。それが、執行と監督を分離する、ガバナンスの基本原則なのだ。(p.146)

●現実問題として、企業はある程度の大きさであれば、一回の戦略の間違いで簡単に倒れたりしない。戦略的な間違いを繰り返すことで危うくなるのだ。そして問題なのは、戦略の間違いではなく、それが繰り返されてしまうことである。その場合、むしろ企業体質のインフラストラクチャーに問題があることが多い。間違いを止めることができなかった何かがある。結局、問題は、経営者や経営陣の選任に問題があったにもかかわらず、それを替えられなかったということなのである。(p.148)

●日本でもソニーの井深大さんによる設立趣意書や、オムロンの創業者による「会社は社会の公器である」など有名な理念や社訓がいくつも存在する。また、私のスタンフォード大学留学時代の教官でもあったジム・コリンズは、名著『ビジョナリー・カンパニー』で、長期的・持続的に成功する会社の条件としてビジョンや共有された価値観の重要性を実証的に説いている。アメリカでも深刻な薬害事故に際し、短期的な巨額出費をものともせず、企業信条(Credo)に徹底して従って対処した、ジョンソン・エンド・ジョンソンのケースはあまりに有名である。表面的な文章ではなく、その哲学や価値観がトップ経営陣を中心に組織構成員によって深く共有されている企業は、真の意味で偉大であり、根源的、持続的な競争力を有している。(p.150)

●そもそも日本は、ルールがあまりに未整備である。典型的なのが、有価証券報告書等の虚偽記載に関してだ。なぜ、これほど罰則が軽いのか。資本配分の規律を委ねた市場のルールを破るということは、会社の投資家に迷惑をかけた、個人の財産権を侵害したというレベルではなく、国家・社会に対する犯罪に近い行為である。通貨偽造や列車転覆のような、国の基盤となるインフラへの信用、社会信用を毀損する行為と同等の視点を持つべきである。この軽さが粉飾のペナルティとして、「上場廃止」というまったく筋違いの「応報刑」で片づける動機づけを、東京証券取引所や学者、あるいはマスコミに生じさせる。そもそも、粉飾決算の直接の被害者は、一般投資家である。しかし上場廃止で実質的に罰せられるのは、彼ら被害者なのだ。(p.153)

●企業統治論を語るとき、注意しなければならないことがある。それは、別に株主が偉いわけでもなければ、債権者が偉いわけでも、従業員が偉いわけでもない、ということだ。本質は、事業にある。あくまでも事業至上主義だ。そもそも事業がGDPをつくり、所得をつくり、雇用をつくっている。事業を持続的に発展させるために、さらには事業を通して実現したい社会的価値、すなわち理念や哲学に近づくために、どういう統治機構があるべきか。これがガバナンスの本質であるべきなのだ。(p.167)

●別の事業をやりたいのであれば、グループの子会社でやらずに、スピンオフしてやればよかったのである。会社のために赤字の事業や本来の目的に合わない事業をやるのは、やはり不健康なのである。(p.168)

●繰り返し述べているように、経営とは無数のトレードオフ、葛藤の中で最適解を見出し、それを実現化していく厳しい仕事である。その矛盾、葛藤を最終的に背負い込み、自社にとっての固有の最適解を選び、その結果について全責任を負うのは経営者以外にはいない。(p.172)

●企業対企業の戦いは、いうまでもなく真剣勝負である。それでも平和な時代は、中にあるパイを日本企業で取り合っていればよかった。シェアが何十年も変わらない業界もあった。しかし今や、そのパイを海外の企業も奪いにきている。どんな企業でも、5年に一度、10年に一度はかなり厳しいピンチに陥る。まさに本当のガチンコ勝負なのだ。そんな場所で、ガチンコ勝負を経験したことのないリーダーで通用するはずがない。(p.182)

●そもそも人間というのは、それほど強くなく、勝ったときには何も学べない生き物なのである。負けてこそ、真剣に物事を考えるようになる。どん底に落ちてこそ、自分の愚かさを真剣に見つめることになる。歴史上の人物で、負け戦を経験したことがない人間など、一人もいないだろう。むしろ、負け続け、辛酸をなめ続け、どん底まで落ちてから何かをつかんだ、という人が驚くほど多い。人間とは、基本的にそういうものである。そもそも失敗の体験がないと、ストレス耐性や胆力も身にはつかない。(p.183)

●日本のいわゆる一流企業の競争など、所詮は「競争ごっこ」なのだ。一流企業に入れば、本当の意味の負け戦などないのである。もちろん競争はあるかもしれない。しかし、負けたからといって、会社がなくなるわけでもない。クビになるわけでもない。死ぬわけでもない。~(中略)~もちろん、ライバル会社との競争も苦しいものだろう。しかし大資本のもとでは、だから何だ、というレベルのものとしか、残念ながら思えない。小さな会社を経営していれば、競争の凄みや怖さがわかる。失敗は、へたをすると死を意味するからである。~(中略)~大組織、一流企業の失敗とは、所詮「その程度」のものなのだ。上司に怒られ、左遷されるだけですむなら、中小企業の経営者からすれば、鼻で笑ってしまう程度のものであろう。同期で一番で出世しようが、二番で出世しようが、それがどうしたというのだろう。そんなことは社会全体で見れば、どうでもいいような誤差の範囲の話だ。(p.188)

●所詮、社内の戦いなど、本当の殺し合いではないからだ。申し上げておきたいのだが、私は、今どきの大組織にいる人たちを非難したいのではない。その「甘さ」をしっかり指摘しておきたいのだ。自分たちが経験しているガチンコは、まだまだ甘い世界のガチンコだということを、理解し、認識しておいてほしいと思う。ビジネスというのは、本気で相手をつぶそうと思って競争するものである。外との戦いというのは、殺すか殺されるか、なのだ。世界最大のコンピュータソフトウエア企業は、技術でもシェアでもブランドでも先行していた小さなベンチャーのブラウザソフト企業をたたきつぶした。完璧につぶしたのである。逆に巨大IBMは、新興のPCメーカーやサーバーメーカーによって破産の淵にまで追い込まれた。また日本のエレクトロニクスメーカーも、本人たちにその自覚があったかどうかはさておき、アメリカのテレビメーカーをすべてつぶしてしまった。アメリカから、テレビをつくる会社をすべて駆逐したのは、日本のメーカーだったのである。(p.189)

●では、これから求められるのは、どんなリーダーなのか。少なくとも、組織人として予定調和的に偉くなろうとしている人には無理であろう。むしろ、組織から、あるいはゲマインシャフトの論理から、はみ出そうとするくらいの人間こそ、必要とされている。はみ出すほどの根性がない人間を、これからのリーダーにはすべきではない、ということである。組織人としてクビになることを厭うているような人間では、これからのリーダーにはふさわしくない。(p.191)

●サラリーマンが、愛社精神を持ち、社内で偉くなりたい、この会社にいたいと思うなら、事業を成功させるのは、そのための手段となる。目的と手段がひっくり返ってしまう。本来、事業に関わる人間、事業に責任を持つ人間は、事業にこそ殉じるべきだった。会社における地位に殉じるべきではない。日本の社会全般を見ると、これがひっくり返っているケースがあまりに多い。その結果、とにかく賛成する人間が多いことをやる。(p.192)

●部下や取引先などに迷惑をかけ、人間的にも逃げ場のない辛い目に遭う。そこではじめて人間は責任の本質、経営者の本質を学び始める。こんなタフなプロセスを生き残り、それでもまだ経営をやりたいという気力の残っているヤツを偉くすればいい。逆に、まじめな部下でいようとする人を、うかつにリーダーに選んではいけない。(p.194)

●そして組織から離れる経験も、エリートは早く体験しておいたほうがいい。脱藩しないような人間、脱藩できないような人間を、偉くしてはいけない。(p.196)

●日本企業、とりわけ大企業の経営についてはいろいろな問題があるが、リーダーがおカネにうとい、という信じられない状況が多々あるという現実がある。多くの企業で、財務と事業が切り離されていて、経理の問題、財務の問題は、経理担当役員にお任せ、という会社が今でも少なくない。~(中略)~大企業の経理担当役員というのは、ほとんどが財務経理畑にいた人が中心で、長くお付き合いのある銀行との窓口を担うことになるが、社長は営業畑一筋で、営業のことしかわからないという人が、いまだに上場企業には少なくない。バランスシートが全然わかっていないのだ。(p.203)

●日本の大企業は、メインバンクに任せておけば、何とかしてもらえる時代が長かった。だから、気にしなくてもよかった。社長自らIRで株主やアナリストと財務的な専門用語で議論する必要もなかった。とりわけ大企業では、この傾向が顕著だった。基本的には銀行が会社の財布役をやってくれた。~(中略)~しかし、今どきこんなやり方が通用しないのはいうまでもない。世界のどこでも通用しない。そのため、産業再生機構の支援を受けることが決まったとき、知らない間に100年かけても返せないような借金になっている、という信じられないような事態が起こっていた。(p.204)

●リーダーに必要なのは、「人間性×能力=人間力」であるが、そのベースにあるのは、どれだけ一人ひとりの市井に生きる人々の切ない動機づけや、喜怒哀楽というものが理解できるか、ということでもある。これは国の政策においてもそうだし、企業の経営においてもそうである。(p.207)

●人は、いろいろな思いで生きている。いろいろな生きる場がある。その時々で、人の気持ちはいろいろな方向に向く。もちろんその中で、人は自分の人生や自分の生活、家族を大事にしようと考える。そうしたリアルな切なさを、リーダーがどれだけ受け止められるか、である。個々の人間のさまざまなインセンティブの方向を理解しなければならない。マクロを見ながら、ミクロも見なければならない。(p.209)

●かのアルフレッド・マーシャルによる至言「冷徹な頭、温かい心(cool head, warm heart)」もいわんとする本質は同じだと思う。そう、もう一度繰り返すが、経営の本質とは、難しさの本質を知ることにある。(p.212)

●そしてマネジメントやリーダーは、自分の仕事の責任の重さ、それも真の重さを認識しておかなければならない。なぜなら、それは他人の人生に影響を与えてしまう仕事だからである。部下が10人いたら、10の人生に責任を持たなければいけない。~(中略)~こういう役割は、誰でもできるような仕事ではないし、誰もがなれるような立場でもない。相当な覚悟、意思、鍛錬がなければ、立ってはいけない立場である。人の人生を背負おうという決心・覚悟のない人は、マネジメントをやらないほうがいい。(p.213)

●時間軸も大事になる。マネジメントは、今日生き延びるということをやりながら、1年後のことも考え、10年後のことも考えなければいけない。今日のことを考える秒針と、明日のことを考える長針と、10年後の次の世代のことを考える短針が、自分の中で整合的に回る能力が必要だ。現場の従業員は秒針でいい。今日のことを考えればいいのだ。ミドルマネジメントには、それに長針が加わり、トップはさらに短針が加わる。(p.213)

●最大の救いは、日本の現場を支えている人々の力、モラールは何とか世界のトップレベルを維持しているということです。再生機構の案件でも、現場人材の底力が最後の頼みというケースがほとんどでした。数人の経営陣を全部入れ替えることはできても、現場の従業員全員を入れ替えることはできません。だから会社も日本も再生が可能なのです。「会社は頭から腐り、現場から再生する」のです。(p.219)
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