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マイケル・サンデル著『これから「正義」の話をしよう』
Author:Michael J. Sandel
Title:JUSTICE
Sub Tit:e:What's the Right Thing to Do?

約350ページもある哲学の本で、読むのが本当に大変でした。が、読み始めてしまったので、がんばって最後まで読みました。


●良い社会は困難な時期に団結するものだ。人びとはできるだけ利益を上げようとするのではなく、たがいに気を配り合う。危機の時代に人びとが隣人を食いものにして金儲けをする社会は、良い社会ではない。したがって、目に余る強欲はできるかぎり抑え込むべき悪徳なのだ。(p.15)

●政府の救済資金を受けた企業の幹部への報酬制限を発表した際、オバマは救済措置に対する怒りの本当の源泉をはっきりと述べている。ここはアメリカです。われわれは富を軽蔑しません。他人の成功を妬(ねた)んだりしません。そして、成功は称えられるべきだと確信しています。しかし、人びとが当然にも憤慨しているのは、失敗した経営者が報酬を得ていることです。その報酬を納税者がまかなっているとなれば、なおさらです。(p.25)

●安全性を高めたガソリンタンクによって得られる便益を計算するにあたって、フォードはタンクを改良しなければ180人が死亡し、180人が火傷を負うものと見積もっていた。そして、失われる命と生じる火傷をそれぞれ金額に換算した-命は20万ドル、火傷は6万7000ドルと。さらに、この金額に焼失するピントの数と価格を加え、安全性を改善する総便益は4950万ドルとはじき出した。いっぽう、1250万台のピントに1台当たり11ドルの部品をつければ、1億3750万ドルのコストがかかる。したがってフォードの結論は、ガソリンタンクを改良する費用は、車両の安全性を向上させる便益に見合わないというものになった。この試算を知って、陪審員たちは激怒した。(p.60)

●1980年代、連邦議会が規制を撤廃すると、ほとんどの州は制限速度を65マイル(約105キロメートル)に引き上げた。ドライバーは時間を節約したが、交通事故による死者は増加した。その当時、費用便益分析によって、運転のスピードアップによる便益が命という費用に見合うかどうかを判定する者はいなかった。しかし数年後、2人の経済学者がその計算をやってのけた。2人は、制限速度の引き上げの便益の1つを通勤時間の短縮として定義し、節約された時間の経済的利益をはじき出すと(平均時給を20ドルとして計算した)、その節約額を増加した死者数で割った。すると、より速く運転する便利さのために、アメリカ人は事実上1人の命を154万ドルと評価していることがわかった。それが、時速10マイル(約16キロメートル)速く運転することの、死者1人当たりの経済的利益だった。(p.62)

●ヘルメットをかぶらずにオートバイに乗ることが無鉄砲であり、ヘルメット着用義務法が命を救い大ケガを防ぐとしても、そうした法律はどんなリスクを自分で取るかを決める権利を侵害すると、リバタリアンは言う。第三者に危害が及ばないかぎり、そしてオートバイの乗り手が自分の医療費を払えるかぎり、国家には、オートバイの乗り手が自分の命と体でどんなリスクを取るかを指図する権限はない。(p.80)

●リバタリアンは、法的強制力を用いて、多数派の持つ美徳の概念を奨励したり道徳的信条を表明したりすることに反対する。売春にはおそらく多くの人が道徳的に反対するだろう。しかし、だからといって、成人が同意のうえで売春を行なうことを阻む法律は正当なものではない。いくつかの社会では同性愛を認めない者が多数派だが、ゲイやレズビアンから自分の性的パートナーを選ぶ権利を取り上げる法律は正当化されない。(p.81)

●富める者が貧しい者を支える-医療、住宅、教育などを補助金を出して支える-ことは望ましいだろうが、そうした援助は政府が命じるのではなく、個人の意向に任せられるべきだ。リバタリアンによれば、再分配のための課税は1つの形の強要であり、さらに言えば盗みである。国家には富裕な納税者に貧者のための社会プログラムを支えるよう強制する権限はない。(p.81)

●アメリカの経済学者ミルトン・フリードマン(1912-2006年)は、『資本主義と自由』(1962年)で、多くの広く受け入れられている国家活動は個人の自由を不法に侵害するものだと論じた。~(中略)~「ある人がみずからの意思でその日暮らしを好み、自分の持つ資源を目先の楽しみに費やし、わかっていて不毛の老年期を選ぶのだとすれば、われわれはいかなる権利で、その人の行為を阻止できるだろうか?」とフリードマンは問う。そうした人は退職後に備えて貯金すべきだと言えるかもしれないが、「その人が選んだ行為を強制的に阻止する権利をわれわれは与えられているだろうか?」(p.82)

●フリードマンは最低賃金法にも同じような論拠で反対する。雇用主の支払う賃金が、いかに低額であろうとも、労働者にそれを受け取る気があるのなら、政府にはその支払いを禁じる権限はない。また、政府が雇用差別を禁じる法律を制定すれば、個人の自由を侵害することになる。雇用主が人種、宗教、その他の要因を理由に差別しようとしても、国家はそれを防ぐ権限を持たない。フリードマンの見方では、「こうした法律が、たがいに自主的な契約を結ぼうとする個人の自由に抵触することは明らかである」。(p.82)

●職業についての資格要件も職業選択の自由への間違った介入になる。腕のよくない床屋が自分の未熟な技術を安く顧客に提供しようとし、その安い床屋を自分の意思で利用しようとする顧客がいるなら、政府にはその取引を禁止する権限はない。(p.83)

●『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)のなかで、ロバート・ノージックはリバタリアンの原理を哲学面から擁護し、分配の公正というよく知られた理念への疑問を提起した。~(中略)~いかなる人も強制されるべきではないとされる事柄のなかでも特に目を引くのは、他人を援助することだ。貧しい者を助けるために富める者に課税することは、富める者への強制である。それは自分の所有物を自由に利用するという、富める者の権利を侵害する。(p.83)

●ノージックはその点をこう説明している。「働いて得た所得に対する課税は強制労働と同じである」。国家が私の所得の一部を要求する権利を持つなら、それは私の時間の一部を要求する権利を持つことになる。たとえば私の30パーセントを取り上げる代わりに、私の時間の30パーセントを国家のために労働に費やすよう命じても同じなのだ。しかし、国家のために働くことを強制できるなら、国家は事実上私に対する所有権を主張していることになる。(p.87)

●貧しい者ほど金を必要とするからと言って、ジョーダンやゲイツに慈善を無理強いするのは間違っている。富める者から盗み、貧しい者に与えることは、ロビンフッドが行なおうと国家が行なおうと、それはやはり盗みなのだ。次のようなたとえを考えてみよう。透析療法に頼る患者が、私の腎臓の1つ(私が2つの健康な腎臓を持っているとして)を私自身よりも必要としているからと言って、その患者が私の腎臓に権利があることにはならない。どれほど緊急で切迫した必要があろうとも、透析患者を救うために国家が私の腎臓の1つに所有権を主張することは許されない。なぜだろうか。それは私の腎臓だからだ。必要だからというのは、私が自分自身の所有物を使って好きなことをする基本的権利に優越するオールマイティのカードではない。(p.90)

●イラクでアメリカのために戦っている人びとの圧倒的多数は、都市部のスラム街や地方の貧しい地域の出身だ。こういった地域では、最高4万ドルという入隊一時金や教育を受ける際の数々の特典はきわめて魅力が大きい。大学に入る選択肢を持っている人にとって、こうしたインセンティブは-自分の命を危険にさらすことになるのであれば-あまり意味がない。(p.111)

●兵役にまつわる一切のリスクにさらされるおそれがない圧倒的多数のアメリカ人は、最も恵まれない環境の同胞を雇って最も危険な部類の仕事をさせてきた。その一方で、この圧倒的多数の人びとは、血を流すことも心を惑わされることもなく、自分のことだけにかまけていられる。(p.115)

●2007年7月、『ロサンジェルス・タイムズ』紙は、イラクでアメリカ政府が契約している民間人(18万人)が、アメリカ軍駐留部隊の兵士(16万人)を上回ったと報じた。契約を結んだ民間人の多くは戦闘を伴わない後方支援業務の担当である。基地を建設したり、車両を修理したり、物資を配達したり、食事を提供したりしている。とはいえ、約5万人は武装した警護部隊だ。基地、輸送車隊、外交官の護衛という仕事上、戦闘に巻き込まれることも少なくない。イラクではアメリカ政府と契約を結んだ民間人が1200人以上殺されたが、彼らはアメリカ国旗で覆われた棺(ひつぎ)で帰国することもなく、アメリカ軍の犠牲者数に含まれることもない。(p.118)

●民間軍事企業の最大手の1つが、ブラックウォーター・ワールドワイド社だ。同社CEOのエリック・プリンスは、海軍特殊部隊(シールズ)の元隊員で、自由市場の熱心な信奉者だ。彼は、自社の兵士は「傭兵」だというほのめかしを一蹴する。この表現は彼にとって「中傷的」だそうだ。プリンスはこう説明する。「フェデラル・エクスプレス社が郵便事業でやったことを、われわれはアメリカの安全機構でやろうとしているのです」。ブラックウォーター社は、アメリカ政府からイラクにおける業務を10億ドル超で請け負ったが、このことはしばしば論争の的となっている。同社の役割が最初に注目を浴びたのは2004年、社員4人がイラクのファルージャで襲われて殺され、そのうち2人の遺体が橋から吊り下げられたときだった。この事件がきっかけとなり、当時のジョージ・W・ブッシュ大統領は海兵隊をファルージャへ向かわせたが、暴徒との大規模な戦闘によって大きな犠牲を払うことになった。(p.118)

●グローバル経済におけるほかの商品やサービス同様、金銭の授受を伴う代理出産は安価な供給者に外注されるようになった。2002年、インドは商業的な代理出産を合法化した。外国人顧客を惹きつけるのが狙いだ。インド西部の町アナンドは、バンガロールがコールセンターの集積地になったように、もうすぐ商業的な代理出産の集積地になるだろう。2008年、この町で50人以上の女性が、アメリカ、台湾、イギリスなどの夫婦のために子供を身ごもっている。~(中略)~そこでは15人の女性が世界各国の顧客の代理母を務めている。こうした女性が稼ぐ金額は4500ドルから7500ドルだ。この金額は、彼女たちがほかの仕事で15年をかけて稼ぐ額を上回ることも多く、住宅の購入資金や子供の教育費になる。子供が欲しいためにアナンドに行く人びとにとっては、この取引は格安だ。総費用は約2万5000ドル(医療費、代理母に支払う費用、往復の旅費、滞在2回分の宿泊費を含む)で、アメリカでの借り腹式代理出産にかかる金額の約3分の1ですむのだ。(p.133)

●体外受精によって登場した妊娠の外部委託(アウトソーシング)は、道徳的な問題をいっそう明瞭に浮き彫りにしたと言える。子供が欲しい人にとっては費用が大幅に安くつく点、そしてインドの代理母にとっては、その子供を産めば地元で働いて得られる資金よりもはるかに多い金額が手に入る点を考えれば、商業的な代理出産が全体の幸福を向上させるのは疑いない。そのため、功利主義の観点からは、金銭の授受を伴う妊娠が世界規模の産業として台頭していることに反論するのは困難だ。だが、妊娠のグローバルなアウトソーシングによって、道徳上の懸念がクローズアップされる面もある。(p.134)

●代理母になるのを選ぶ経済的利点は明らかだが、われわれがこれを自由と呼んでいいのかどうかははっきりしない。さらに-貧しい国々の計算ずくの政策としての-世界規模での商業的な代理出産産業の出現は、女性の体と生殖能力を道具扱いすることによって、代理出産が女性を貶めているという思いをさらに強くさせる。(p.134)

●クリントン元大統領の例で考えてみよう。近年思いつくかぎり、アメリカの公人で彼ほど巧妙に言葉を選んで、否定の言葉を練り上げた者はいない。1期目の大統領選の期間中に、クリントンは麻薬を使ったことはあるかという質問に対し、自分の国の麻薬取締法を破ったことは1度もないと答えた。のちに、イギリスのオックスフォード大学留学中にマリファナを試したことがあると認めた。(p.175)

●成功している人びとは、自分の成功がこうした偶然性の影響を受けていることを見逃しがちだ。われわれの多くは幸いなことに、社会が高く評価する資質を何かしらは持っている。たとえば資本主義社会では起業家精神が、官僚主義社会では上司とぶつからずにうまくやっていく能力が役に立つ。大衆民主主義社会ではテレビ映りがよく、カットされた薄っぺらなニュース映像のなかでも巧みにメッセージを伝えられる能力が、訴訟社会ではロースクール(法科大学院)の卒業資格と、論理的で合理的な思考能力が役に立つ。この種の能力はロースクールに入るためにも欠かせない。社会がこうした資質を高く評価するのは、われわれの手柄ではない。このような才能を持っていても、もし現代のような技術の発達した訴訟社会ではなく、狩猟社会や戦国社会、身体能力や信仰深さが報われ、評価される社会に生きていたらどうだろう。どう考えても出世の見込みはないので、別の才能を伸ばすことにするかもしれない。(p.212)

●多様性を確保するという主張の正当性を検証するために、マイノリティではなく、白人に対する優遇が正当化される場合もあるのかを考えてみよう。ニューヨークのブルックリンに、約2万人が暮らすスターレットシティという連邦政府の助成を受けたアメリカ最大の中間所得層向け公営住宅がある。異なる人種が共存するコミュニティをつくるという目標をもとに、1970年代半ばに入居が始まった。この目標は、「入居者規制」を導入することで達成された。アフリカ系アメリカ人とヒスパニックの居住者を全体の40パーセント以下に制限することで、コミュニティの人種と民族のバランスをとったのだ。要するに定員制限を設けたのである。この制限の根拠となったのは偏見や侮蔑ではなく、過去の経験から導き出された、人種バランスの「転換点(ティッッピングポイント)」に関する理論だった。近隣の都市では、白人の割合が一定度を下回ると「白人の流出」が起き、人種の統合が進まないという現象が起きていた。そこでスターレット・プロジェクトの担当者たちは、人種と民族のバランスを適正に保つことで、さまざまな人種が暮らす安定したコミュニティをつくろうと考えたのである。(p.229)

●古代世界では、目的論的な考え方が現在より優勢だった。プラトンとアリストテレスは、炎が立ちのぼるのは本来の居場所である空に届こうとするからであり、石が落ちるのは還るべき場所である地面に近づこうとするからだと考えた。自然には意味のある秩序があると見られていた。~(中略)~近代科学の誕生とともに、自然を意味のある秩序と見る見方は影を潜めた。代わって、自然はメカニズムとして理解されるようになり、物理的法則に支配されると見られるようになった。(p.245)

●この点で、美徳を身につけるのは笛の吹き方を習得するのと似ている。本を読んだり講義を聴いたりして楽器の演奏を覚える人はいない。練習しなくてはいけない。熟練した音楽家の演奏を聴き、耳から演奏法を学ぶのも有効だ。ヴァイオリンを奏でずにヴァイオリニストにはなれない。美徳も同じだ。「われわれは正しい行動をすることで正しくなり、節度ある行動をすることで節度を身につけ、勇敢な行動をすることで勇敢になる」これはほかの慣行や技能についても言えることで、料理もその一例だ。料理本はあまた出版されているが、それを読むだけで料理の達人になる人はいない。たくさん料理をしなければいけないのだ。ジョークの飛ばし方もしかり。ジョークの本を読み、笑い話を集めても、お笑い芸人にはなれない。お笑いの原則を習っただけでも無理だ。(p.256)
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