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竹中正治著「ラーメン屋vs.マクドナルド」
この本、昨年の8月に読み終わっていた本です。他にも昨年3月以降に読み終わっている本があるのですが、なんとなく雰囲気でこの本からアップすることにしました。

●また、「日本企業の従来型の経営では内輪の役員間の馴れ合いで経営規律が弛緩(しかん)して非効率や不祥事が隠蔽される。これを改善するためにはアメリカのように社外取締役を増やして企業経営に規律をもたらすべきだ」という主張がある。確かにアメリカでは、企業経営者はCEOをトップとする執行役員と彼らの動きを監督する取締役に分かれ、取締役の過半は社外取締役であるケースが多い。それを真似て日本でも社外取締役を増やすコーポレート・ガバナンスの改革が行われた。しかし、ご本家アメリカの経営学の実証分析では、「社外取締役の増加がコーポレート・ガバナンスの強化に役立っていない」ことが大いに問題になっているのである。(p.7)

●本書の狙いは2つある。ひとつは、日本とアメリカの比較を通して、経済、文化、政治、宗教の諸問題を読み解くことだ。その際、受け入れ易い通俗的な解釈、その虚構に騙(だま)されないこと、同時に自分自身の理解がそうした虚構に陥らないことを心がけた。もうひとつの狙いは、日本とアメリカの経済、文化モデルの比較を通じて、私達日本人の「軸足」を考えることである。~(中略)~日本のモデルもアメリカのモデルも、礼賛するのでもなく全否定するのでもなく、その生まれた背景に従って長所と短所を見極め、新しい日本の軸足の手掛りを探求したいと思う。~(中略)~もちろん、アメリカは巨大にして多様であり、筆者の経験も「群盲、象を撫でる」の一例に過ぎない可能性もある。どれほど狙いを実現できたかは、お読みいただいた読者のご判断にお任せするしかない。(p.7)

●ポケモンはいまや、アメリカ社会にすっかり溶け込んだ(2006年8月8日、ニューヨークの「ポケモンの日」)(p.13)

●米国の初等・中等教育は深刻な問題を抱えており、基礎的な読み書きや計算すらできない膨大な落ちこぼれ層を生み出している。落ちこぼれた生徒は低所得・貧困層を形成し、低所得と教育の貧困がさらに拡大する悪循環を引き起こしていることは、アメリカ人の間では広く議論されている。(p.18)

●彼女の隣に座っていた、日本の大学から参加していた教授(この方はもう少しバランスのある講演内容だったが)が反応して、「たしかに日本で訓練、修行と言うと、剣道や柔道など武術の面でも『型(form)』へのこだわりが強い。『型を磨く』というこだわりは『標準化』へのこだわりであり、日本の製造業の生み出す高品質はこうした要素に支えられている面がありそうだ。しかし創造性は基礎知識の積み重ねの上に開花するものであり、創造性と平均学力の関係をトレードオフとは断定しかねるのではないか」と助け船を出した。(p.18)

●集団的な行動特性を「文化的特性」として語ることは通俗的な議論ではよくある。しかし、社会心理学の山岸俊男教授は著書『心でっかちな日本人』で、日本人が文化的に「集団主義的行動パターン」を有しているという事実は実証的心理学テストによると全く見出されず、「特定の環境の中での適応行動」としてのみ理解できると説いている。(p.19)

●「アーティスト」と「職人」の違いは何か?私なりに定義すると、自分の創作したいものを創って、結果的に売れたり売れなかったりするのが芸術家・アーティストである。一方、受注があって初めて仕事が始まるのが職人である。だからアーティストは創作に好きなだけ手間隙(ひま)をかけるが、職人は発注者との関係で時間と予算が限られており、その制約条件の中で腕をふるう。(p.27)

●質疑の時間に、「ディズニーの『ライオン・キング』は手塚治虫の『ジャングル大帝』の盗作だという批判が日本で当時起こりましたが、どう考えられましたか?」という質問が私の脳裏に浮かんだ。しかし、この職人気質の心意気の持ち主に対しては陳腐な質問だと感じて、自分の言葉を飲み込んだ。(p.28)

●「日本アニメはどうして米国の子供から大人にまで人気を広げているのか?」日本アニメはディズニーに代表される米国のアニメ映画やテレビアニメと何が違うのか?」しかし、的を射た回答に達している論評には、まだお目にかかったことがない。(p.30)

●これだけの多様性を生み出せるのは製作者らの才能であろうが、同時に東西の文化要素が混然とした日本的文化土壌の産物ではなかろうか。もちろんディズニー・アニメにも「アラジン」や「ムーラン」のようにエキゾチックな作品もあるが、作品の描く世界は、あくまでもアメリカ的にデフォルメされたペルシャ世界や中国世界に過ぎない。異なる文化的要素を混在させて、ジャンクではなく完成度の高い虚構世界を構築する力はディズニーには見られない。(p.31)

●ついでに言えば、ワシントン駐在時代に「NHK紅白歌合戦」で初めて松平健の「マツケンサンバ」を見た時の衝撃は忘れられない。日本の時代劇とラテン・サンバをフュージョン(融合)した文化的モンスターだと思った。異なる文化的要素をフュージョンし、突然変異的な新機軸を生み出す、日本のポップ・カルチャーの文化的ダイナミズムの典型だ。(p.32)

●古今東西、異質な文化要素とのフュージョンは、新しいパターンを生み出すダイナミズムの源泉だ。例えば「万葉集」は中国漢字の音を大和言葉に当てはめた「万葉仮名」で書かれ、当時最先端の文化的フュージョンだった。当時の中国の知識人がそれを見れば、「野蛮な東夷の珍妙なる所業」と笑ったに違いない。しかし「万葉仮名」はその後「ひらがな」「カタカナ」を産み出し、漢字、ひらがな、カタカナを盛り込んで表記される現代日本の文章の原点となった。(p.32)

●製造業でもサービス業でも大企業のビジネスは、それを供給する側が大組織になり、高度に管理化されるに従って画一化され、変革への柔軟性を失い閉塞する。それはどこの国でも同じだ。閉塞を打ち破るためには変わらねばならない。では、どのように変化すれば良いのか。ひとつの鍵は、異質な文化的要素を取り込み、意外性と面白さを創出することだろう。大企業であっても、そうした意外性と面白さを創出する細胞を組織の中に育てることは可能なはずだ。(p.35)

●販売店のサービスに対する購入者の満足度を調査するものである。諸項目について「素晴らしい(Excellent)」「とても良い(Very Good)」「良い(Good)」「普通(Fair)」「不満足(Unsatisfactory)」の5段階評価で選んでくださいと言う。普通に満足していたので「とても良い」と「良い」を中心に「素晴らしい」も少し混ぜて回答した。1~2週間してから、販売店の営業担当者から私に電話があり、「買った車に何か問題がありますか?」ときかれた。「問題ないよ。新しい車を楽しんでいるよ」と答えると、「それじゃ、満足度調査でどうしてあんなに悪い評価をくれたのですか?」と言う。「悪い評価なんてしてないよ。概(おおむ)ね『とても良い』と『良い』で答えたよ」と言うと、「あんた!そりゃひどいスコアってことだよ」と愚痴られた。「素晴らしい(Excellent)」以外は「問題あり」のバッド・スコアなのだそうだ。日本人はよほど感動でもしない限り「素晴らしい」なんて言わないだろう。これは顧客満足度調査に限った話ではない。学校で先生が生徒を指導する時も米国では"Excellent""Great""Perfect"の連発である。ゴルフ練習場でもお父さんが小学生の息子にクラブを振らせて、ちょっとでもボールが前に転がれば、"Excellent""Great""Perfect"を連発している。日本人だったら、上手に出来ても「よく出来た(Well done.)」でおしまいだ。米国で数年育った帰国子女が日本の学校でよく感じる不満は「学校の先生が全然ほめてくれない」ことだと言う。これは企業でも同じであり、日系企業で日本人上司と部下のアメリカ人の間で相互不理解の原因によくなる。日本人上司はアメリカ人スタッフの勤務態度・実績に特段の問題を感じていない場合でも、アメリカ人スタッフは「日本人上司が自分のことを全然評価してくれていない」と感じて不満を鬱積させる。要するにアメリカ人は相手のパフォーマンスを評価する立場にある場合、ポジティブな表現に気前が良く、日本人は極めて禁欲的である。その反対にネガティブな表現をアメリカ人はあまり使わない。最悪でも"OK"であり、それ以下の表現は相手と喧嘩する(あるいは部下なら首にする)つもりでなければ普通は使わない。~(中略)~一方、日本人の方が職場や教育現場でもネガティブな表現を気軽に使う。学校の先生が勉強の足りない受験生に「危機感が足りないぞ、おまえ!」なんて言うのは常套句(じょうとうく)だろう。表現に関する文化的な違いと言ってしまえばそれまでであるが、どうも根がもっと深いのではないだろうか。(p.38)

●日米を問わず、一般にメディアは良いニュースよりも悪いニュースに紙面を割き、センセーショナルに報道する傾向がある。これはメディアの偏向というよりも、良いニュースよりも悪いニュースにより敏感に反応する傾向が人間(読者、視聴者)にある結果だろう。行動経済学の研究によると、人間の損と益に対する感覚は対称的ではない。損が生じる苦痛は同額の益が生じる喜びの度合いを上回ることが実験で確認されている。これから類推すると、悪い情報と良い情報についても、同様に人間の感覚は非対称的のように思える。これは淘汰されながら環境に適応する進化の結果生じた性向だと考えると納得できる。(p.41)

●しかし、アメリカ人より日本人が「危機」に代表されるネガティブ表現を好むのはどうしてだろうか?この違いを類型化すると、日本人に多い類型は「危機感駆動型」であると言える。「このままではお前(日本)はダメになる!」「危機だ!」と言われると強く反応して動き出すわけである。一方、アメリカ人に多い類型は「希望駆動型」である。「できるじゃないか!」「ステップアップできるぞ!」と励まされると強く反応して動く。こうして考えると日米の様々な違いが説明できる。(p.42)

●例えば、米国のエコノミストには毎度楽観的な見通しを言う人が圧倒的に多い。反対に日本のエコノミストには、「危機の預言者」みたいな連中がたくさんいる。日本の歴代首相や政治家にも、まず問題や危機感の強調から始まるタイプが多い。「日本はこのままではダメになる!」方式だ。一方、米国の大統領、政治リーダー達はどんな困難な状況でもまず希望を語ることから始める。「私のリーダーシップを受け入れるならば、難局は打開できる」とまず希望を語るのが米国のリーダーの資質だ。(p.43)

●なぜ日本で「危機感駆動型」が主流になったのか?実証的に語ることは難しいので、これは筆者の空想的な仮説に過ぎないが、日本の辿(たど)った現代の歴史的な環境、すなわち「生い立ち」に負うところが大きいのかもしれない。幕末、明治の日本人を駆動したのは危機感だった。幕末の攘夷論に始まり、明治には「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、富国強兵で欧米列強に伍して行かねば日本は立ち行かなくなる」という強烈な危機感が働いた。戦後の日本経済の「輸出立国」もやはり危機感駆動型を下地にしたものだ。「日本は天然資源の乏しい小さな島国。だから資源を輸入して高品質の製品を製造、輸出して外貨を稼がなくては経済が立ち行かなくなる」。これは戦後の日本人の多くが共有した一種の「教条化された危機感」である。(p.45)

●一方、アメリカは欧州で宗教的に迫害された、あるいは食いはぐれた人達が「新大陸での希望」に賭けて移民して来てできた社会だ。16世紀には北米の植民者の半分ほどが最初の厳しい冬を越えることができずに死んだとも言われるが、それでも彼らを突き動かしたのは「希望」だった。東海岸地域であぶれた人達も、西部・フロンティアへの希望に導かれて西海岸まで広がった。カリフォルニアのゴールドラッシュは、そうしたフロンティアでの希望の実現を象徴する出来事だったのだろう。地理的なフロンティアが消滅しても、新ビジネスや技術開発がもたらすフロンティアの希望に駆られて走りつづけてきた。現在でも、不法入国を含めて毎年100万人近い移民が「職を得る希望」に導かれて米国に流入する。(p.46)

●しかし、どうも今日の日本で語られる「危機論」や「このままでは没落する論」は変革機運に結びついているというよりも、自己暗示的な自縛、閉塞を生んでしまっているような気がしてならない。~(中略)~危機感駆動型の限界は「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」ことにある。西欧列強が武力で植民地獲得競争をしていた幕末から明治、日本のほとんどの主要都市が空襲で焼け野原となった戦後なら、危機感をバネにした変革も頑張りも長期に持続するものとなりえた。ところが、なんだかんだ言っても豊かさを実現した今日では、不良債権問題と不況が終焉(しゅうえん)するや、大した改革もしていないうちに「改革疲れ」が語られ、変革機運は後退してしまった。財政赤字、年金不安、少子高齢化、地球温暖化など、今日の諸問題は放置しておけばやがて大禍となろうが、何もしなくても今日明日の生活に困るものではない。こうした問題は危機感駆動型アプローチが対応し難(にく)いものなのだ。(p.47)

●宇宙事業という巨大なフロンティアで冷戦の相手であるソ連の後塵を拝すというのは、致命的な敗北を意味したのだ。実際、当時はまだ中ソ関係が良かったので、毛沢東はこの時「東風は西風を圧倒する」という有名な演説を行い、社会主義陣営の優勢を誇示した。これを契機に米国は宇宙ロケット開発に邁進(まいしん)する。~(中略)~しかしどうもアメリカ人にとって「危機感駆動型」は馴染めない、落ち着きの悪い形のようである。そこで60年代初頭にケネディ大統領は「60年代の末までに人間を月に到着させる!」と宣言し、ロケット開発競争を危機感駆動型から希望駆動型に衣替えした。~(中略)~「宇宙、それは人類に残された最後の開拓地である」、これは米国の人気SFドラマ「スター・トレック」の冒頭のフレーズである。しかし、それでも当時の米ソ冷戦が生み出す現実の危機が消えてなくなるわけではなかった。どうもアメリカ人は危機感に駆り立てられて行動するのは苦手で、そういう時には失敗を重ねる。その典型がベトナム戦争だったのではないか。(p.50)

●なぜアメリカ人は危機感に駆られる時に失敗するのか?「希望」のエートスとは別のもう一つのアメリカ人の根強い文化的思考パターンが原因だと思われる。それは世界を「善悪二元論」で見ることだ。自分達が危機に直面しているのは、この世に「悪」が存在し、それが大きくなっているからであると考えてしまう。ソ連は「悪の帝国」であり、北ベトナムはその手先である。こう考えてしまった結果、戦術・技術的には最高に聡明な人々が大きな間違いを重ねた。(p.51)

●つまり「想定される地震に対する安全度の向上」というような、事業の計画通りの遂行には強い執着力を発揮する組織なのだ。ところが、不確実な現実の中で様々な悪環境を想定し、期待通り進まなくなった場合の次善策や軌道修正、代替策を用意しながら事業を進めることはひどく苦手のようだ。想定された情勢と現実が大きく乖離(かいり)し始めても、「決められたことだから」とどんどん進められてしまう莫大な公共事業、薬害情報が上がってきても「使用中止」を通知せずに被害を広げてしまう厚生行政など、枚挙にいとまがない。(p.58)

●「安全」とは本来確率的に考えられるべき概念であり、絶対の安全ということはあり得ない。安全の精度を上げるには経済的なコストもかかる。要するに、コストとのバランスでどの程度の安全確率なら良しとするかの議論が必要なのである。(p.61)

●無謬を前提に作られたシステムは、いかに精緻でも、一度失敗が起こると脆(もろ)く、混乱する。システムの動揺に直面してどうして良いのか判らなくなるので、危機感が強調される。「危機を乗り越えるために総員必死になって頑張れ!」という展開になってしまう。(p.62)

●更に遡(さかのぼ)れば、丸山眞男は敗戦後間もない時期に次のように書いている。「我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当らないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか」。要するに、日本的政策決定プロセスにおける主体的意識の不在を批判している(丸山眞男「超国家主義の論理と心理」1946年)。(p.63)

●何を実現すべきなのか、それを妨げる問題に対して誰が責任を負うのか、解決するために何を改革すれば良いのか、そうした議論をひとつひとつ積み上げ前進するためには、明確なビジョンを掲げ、その実現に責任を負うリーダーシップが必要だ。しかしそれが不在だから、問題状況は漠然とした危機感として拡散し、「危機だ。総員奮起して頑張れ!」という毎度の陳腐なお題目に行き着いてしまう。(p.64)

●同時に、閉塞を産み出している根底に無謬信仰があるのだから、私達はまずこれを捨てることから始めよう。「失敗ゼロからの脱却」である。畑村洋太郎は言っている。「決められた設問への解を最短で出す方法、『こうすればうまくいく』『失敗しない』ことを学ぶ方法ばかり重視した教育からは、創造力を養う機会は生まれない」。昨日までの成功が明日の成功を約束しなくなった今の時代、失敗から学習し、自ら課題を設定して挑戦を繰り返すことを讃えようじゃないか。せめて自分の部下、子供、自分が関係する若い世代、そして肝心の己自身にはそうした気持ちで接することから始めよう。(p.65)

●実際、国際舞台ではあまり喋らない日本人は損をしている。英語の上手下手の問題ではない。非英語国の人間でも下手な英語でガンガン主張している連中は沢山いるのだ。これでは「日本人は何事も集団主義的で、個人の意見がないんじゃないか」などという偏見がまかり通ってしまう。(p.70)

●実際、日本人は子供時代に「書く」ことを学ぶためにアメリカ人とは比較にならないほどの学習労力を費やしている。しかも計算訓練にもアメリカ人以上の訓練を費やす。だから日本の小学校で算数の計算能力が平均的な子供でも、米国の小学校ではトップ水準だ。しかし学習に費やせる時間には限りがあるので、書く訓練に多くの労力を費やせば必然的に犠牲になる訓練が出てくる。それが口頭プレゼン能力、大勢の前で話し、討論する訓練である。一方、米国の小学校では、「みんなの前でお話ししよう」のレッスンにかなりの時間が費やされている。娘が通っていた米国の公立小学校でも、かなり多くのレッスン時間が口頭プレゼン訓練に費やされていた。例えば"Book Report""News Report"と呼ばれ、読んだ本や新聞ニュースについてレポートする作業がある。日本なら「読書感想文」を書いておしまいだろうが、"Book Report"ではレポートを書き、その後クラスの生徒の前で口頭プレゼンをする。そのプレゼン内容が幾つもの評価項目で評点される。(p.71)

●ブログ調査会社テクノラティ創業者のデビッド・シフリーによると、世界のブログ書き込み言語のシェアで日本語は37%と、英語の36%を上回ると言う(http://www.sifry.com/alerts/archives/000493.html)。(p.73)

●文字文化の日本人の特性は外国語の教育、勉強でも出てしまう。かなり高いレベルで英語の読み書きができるのに、英会話となるとまるでお手上げの日本人は多い。反対にアメリカ人は日本語を勉強してかなり流暢な日本語を話す場合でも、日本語文章を書くのはとても苦手というのが一般的だ。(p.73)

●一方、アルファベットを文字体系とした西洋では、単語を憶える、文法を習得するという言語共通の訓練を積みさえすれば、文章作成自体は相対的に容易である。容易なものでは差別化し難い。知識人を目指す中国や日本の子弟は文章作成訓練により多くの時間を費やし、複雑な文字体系を駆使した文章文化を発展させた。一方で、西洋の子弟は別のプレゼン技術の訓練に時間を費やした。その結果生み出されたのが弁論文化である。演説やディベートの巧みさ、格調の高さに価値がおかれた。(p.76)

●主要な大手シンクタンクは以下の通りである。
アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(AEI)(保守系)
ヘリテージ財団(保守系)
ブルッキングス研究所(リベラル系)
ケイトー研究所(保守・リバタリアン系)
ピーターソン国際経済研究所(リベラル系)
外交問題評議会(CFR)
戦略国際問題研究所(CSIS) (p.80)

●アメリカ人がパブリック(公の場)とプライベート(私的な場)で見せる、このスタンスの大きな乖離(かいり)はどこから生じるのだろうか?米国ではエコノミストも「市場価値」に晒(さら)されている。ユニークなこと、世間の関心を引くようなことを言って、注目を集めないと飯の食上げになる。そうした事情がひとつの原因として働いている。しかしそれだけではないようだ。日本人の「本音とたてまえ」の使い分けはよく言われることである。しかしアメリカ人の場合は日本的な「本音とたてまえ」の構造とは違う感じがする。「本音」とは私的な欲望や動機のことだ。「本音」のままでは通らないので、組織や世間に受け入れやすいロジックでカモフラージュされた主張が「たてまえ」である。両者は「素顔と仮面」の関係にある。(p.93)

●日本人は一般に、駆け引きのある議論は不誠実と感じ、好まない。しかしアメリカ人はこれが好きだ。パブリックでの主張はアドレナリンたっぷりの交感神経を興奮させたディベート用の議論になりがちである。アメリカ人が大好きなジョークも、攻撃的な議論だけだと話がギスギスしてしまうので、時折ジョークをはさんで笑わせ、雰囲気のバランスを取る効果があるようだ。一方、プライベートで話す時は、副交感神経に切り替わり、肩の力が抜けたトーンになる。どうもそういうことのようである。(p.94)

●駆け引きに満ちたディベートが好きではない日本人が代わりに好むのは「謝罪」である。何かトラブルが生じた時に、責任があるとされる人物や組織が、ともかくまず謝罪しないと肝心の話が始まらない。2001年、米国の原潜がえひめ丸に衝突して沈没させた事故が良い例だ。この時日本の被害者家族らは、原潜の艦長がなかなか家族の前に顔を出して謝罪しないことに、「誠意がない」と怒りをつのらせた。~(中略)~米国政府の事後の対応が適切だったのかどうか、事実関係の詳細を承知していないので私自身の判断は留保するが、米国流に対応すれば、謝罪するかどうかは事実関係を究明してからのことである。その前にいきなり謝罪するような「自己に不利益な行為」は普通しない。(p.96)

●同氏は日本人のロボット・テクノロジーの原点を、江戸期のカラクリ人形に見るが、現代の日本人にとってのロボット・イメージはなんと言っても鉄腕アトムだと言う。一方、アメリカでロボットのイメージと言えば、映画「ターミネーター」である。人間のパートナーとしてのアトムのキュートなイメージと、ターミネーターの恐ろしい殺戮者のイメージ、この日米のコントラストはどこから来るのだろうか?同氏は、キリスト教文化のアメリカでは「我々とそれ以外」「人間と非人間」「善と悪」という対立的、二元論的なイメージの影響が強く、「ロボット→非人間→異質な脅威」という連想が働くのだと言う。しかし、日本人のロボット好きの原因については、なぜか直接には語らなかった。(p.140)

●私が思うに、日本文化はアニミズムの影響を強く残しており、日本人は非人間、非生物にも容易に『魂(spirit)』の存在を想像する。(p.141)

●「日本の少年野球を取材した時に、ゲームが終わってからコーチと選手達がグラウンドに向かっておじぎをするのを見て、不思議に思って監督に尋ねたことがある。『グラウンドにも魂がある。それに感謝しているのだ』という答えだった。アメリカの野球少年達は考えもしないことだ。(p.141)

●アカデミー長編アニメ賞を受賞した宮崎駿の「千と千尋の神隠し(Spirited Away)」に登場する様々な異形(いぎょう)のクリーチャー達が、八百万(やおよろず)の神々であることを日本人は自然に理解できる。このアニメ映画はアメリカでも都市部の知的でリベラルな家庭層にはかなり見られている。しかし、アメリカの子供達に「八百万の神々」の概念があるはずもない。異界の不思議なクリーチャーを彼らは「ポケモンの同類」のイメージで受け止めているようだ。(p.142)

●息子によると、多種多様なポケモンは「火ポケモン」「水ポケモン」「風ポケモン」「岩ポケモン」などのカテゴリーに分類されるそうだ。これらポケモンはそれぞれ火、水、風、岩に関連した技を持つ。ポケモンとは私には「火、水、風、岩の精霊」に思えてならない。ポケモンとは自然現象の背後にそれぞれの精霊(spirits)の存在を想定する日本アニミズム文化の現代版なのではなかろうか。(p.142)

●第1章で述べたように、2004年2月にワシントンDCで講演した日本アニメ界の巨匠、りんたろう氏は、"Animation"と同じ語源の言葉としてアニミズム(Animism)を挙げた。万物に精霊がやどっていると考えるアニミズムは、二次元の絵がまるで生命を吹き込まれたかのように動き出すアニメとピッタリ重なる。(p.143)

●いったい彼らは「ポッター」シリーズの何が気にくわないのだろうか。その共通する論点を要約すると次の通りである。「愛、友情、勇気を鼓舞する物語ではあるが、魔術と魔法使いを基本的な要素にしている。魔術や魔法使いが、普通のものであるかのごとく、時には救済であるかのように描かれている。反キリスト教的な魔術・魔法使いを普通のものとして受け入れさせる巧妙な仕掛けに満ちている」。もちろん、こうした議論は、非キリスト教徒には全く説得力を持たない。(p.149)

●サラリーマンは源泉徴収された給与を受け取るので多少の増税も「定め」として諦観してしまう傾向が強い。ところが、確定申告をして税金を追加的に支払わなくてはならない経験をしたことがある人なら判るだろうが、一度自分の所得として預金残高に入った金から税金を支払うことは、給与から天引きされる時とは比べものにならないほど不快感が生じるものである。(p.159)

●米国ワシントンDCに赴任して2カ月後、家族用に自動車を買った時のことである。自動車保険も自動車ディーラーが一緒に手配してくれるのかと思ったら、全く手を貸してくれない。既に自動車の引取日になっていたが、無保険だと引取りができないという。(p.168)

●即刻、GEICOに電話で解約を通告し、新しい保険代理店を通じてトラベラーズに乗り換えた。「即刻解約の許容」は米国では保険会社に義務づけられており、期日までの支払い済み保険料は日割り計算で払い戻される。~(中略)~この経験で改めて痛感したのは、米国では顧客を評点法(スコアリング方式)で分類し、セグメント(顧客分類)別の価格体系が徹底されていることである。自動車保険契約の場合は、契約者の行動特性や自動車を保有する地域の属性が、保険会社のコスト(将来の保険料の支払い)に大きな違いを生み出す。慎重な運転行動の持ち主で、無事故の運転履歴も長ければ、事故の発生確率も低く、保険料の支払い確率も低くなる。(p.170)
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